例えばこのように写真展見ています。杉本博司『ロスト・ヒューマン』

もう1ヶ月以上前になりますが杉本博司『ロスト・ヒューマン』東京都写真美術館を見てきました。
写真展見てもよくわからない、なんとなくきれいとだな、なんだか義務感に襲われて展示見に行ってモヤモヤしてしまっている人のために例えばこんな風に写真展見てきましたよという事例を一つ。正解はないのでもちろんただきれいとか美しいでも一向に問題はないのです。作品を制作している人間のかなり個人的な展覧会を見たときの感想はこんな感じになりますという事例として見てもらえればと思います。

私自身、写真を撮ってあとから見返すと自分ではあまり意識的ではなかったが、妙に何度も写っているものや、似たような状況、モノなどを発見することが往々にしてあります。そのなかで改めて、気になるもの、興味があるものや、こだわりがあるもの、に気付かされることがあります。そこでなんでそのようなものに興味が湧くのか、気になるのかという素朴な疑問から作品を作る動機になることも多いです。

杉本博司は本当かそうでないか分からないもの(確かめる方法ががないもの)をキャリアの最初期から常に作品の対象としています。なぜそこに個人的な興味が一貫しているのかとても気になります。

ジオラマの剥製の作品や、蝋人形の作品などは非常にわかりやすく本物のような作り物です。よく考えると劇場のシリーズも一本の映画が上映された時間を写真に収めたことになっていますがこれも露出過多で真っ白になっているのでキャプションにあるような映画が本当に上映されたかわからないです。海景のシリーズも世界中の海を撮影したことになっていますが、本当のところ全部伊豆の海かもしれないです。ここで言いたいのは本当だからいいとか悪いということではなく、どこまでいってもその疑問が残ってしまうのことそのこと自体を作品に意識的に取り込んでいるということです。蝋人形のポートレイトのシリーズではもはや何がオリジナルでコピーだかわからなくなっています。何人かは人間が混じっているかもしれないです。骨董品自体もそもそもキャプションがなければなんだかわからないものもありますし、それが本当に書いてある通りのものであるか確かめようがないです。本人も

「どんなに虚像でも、一度写真に撮ってしまえば実像になるのだ。」

hiroshi sugimoto hatje cants 2005

と言っています。

三十三間堂の写真は千体の千手観音像が微妙な差異がありつつ複製されているものを写真で撮影しています。そのうえ土門拳「三十三間堂千体千手観音立像群正面」1962からの引用であるため更にメタ構造になっています。デュシャンからの引用も多く見られます。今回の展示での「ラブドール・アンジェ」ではマルセル・デュシャンの遺作「1.水の落下、2.照明用ガス、が与えられたとせよ」が引用され、わざわざマン・レイが撮影したデュシャンのポートレイトまで展示されていました。その他にも冒頭にある「今日世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない。」はカミュの異邦人からの引用であるだろうし、廃墟劇場も以前の劇場シリーズと対になっていることを考えるとマルグリッド・デュラスの「インディア・ソング」と「ヴェネチア時代の彼女の名前」から形式的には引用にも思えます。海景のシリーズもロスコからの引用かも知れないです。2012年にpace londonで「Dark Painting And Seascapes  ROTHK/SUGIMOTO」という展示が行われています。

井上光晴[ref]原一男監督の「全身小説家」1994年に詳しい。[/ref]のように作家自身の過去についても作品化している。

“ I still remember quite vividly the first time.I saw the sea.We were heading to some summer retreat,riding along a steep wooden cliff,when I looked out the train window and I caught sight of the calm expanse of the sea.the horizon sharp against the sky.I was only a boy,but felt as if I’d awakened from an age-old dream.My consciousness began from that point on.”

The day after day/pace gallery 2010

 

「一番古い記憶は何だろうか?」

「そして、それは井戸だ。」

sugimoto リブロポート 1988

このように美術の価値やその歴史も取り込み想像や解釈の余地が多く残っていることが杉本作品の魅力であると思います。それにしてもこの何度も繰り返される虚実を往復するようなモチーフへの執着は何でしょうか。キャリアの最初期から骨董に触れて、ものの価値というものを考えていた体験がそのようにさせているのでしょうか。価値と言うものに対しての疑いが常に見え隠れしています。杉本作品がまたアートとして揺るぎない価値として存在しているのもまた皮肉なのかと思ってしまいます。

生きていて現在作品を制作している作家の展示は私達と同時代を生きているので、作家の個人的な考え方や価値観を想像したり考えたりしやすいです。見た目の美しさや、なんとなく雰囲気が好きというだけでなくその他のことも想像してみることも能動的に展覧会を楽しめる一つの方法です。

 

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