立ち食いそばチェーン界の二大巨塔、うちたて、ゆでたて、あげたての「ゆで太郎」と、ありえないお店を目指す店「いわもとQ」。その数ある「ゆで太郎」の中の名店70号店、佐倉岩富店のさくさくのかき揚げそばを食してから川村記念美術館に向かう。
サイ・トゥオンブリーの作品は以前訪れた、直島美術館のブルース・ナウマンのホールから二階に上がったところにあるグレイペインティングを見たのが、現物を見た最初だった。絵画は画集などでも何度か見ていたのだけども写真作品は初めてだった。
ポラロイドで(多分色味からsx-70初期の作品はModel 95Aではないかと思われる)撮影されたものをドライプリント(フレッソンプリントみたいな質感)でプリントしたものが展示されていた。絵画では闇の中でデッサンしたものが初期の作品の頃にはあり、その盲目性などについてはロラン・バルトなども下記のように記している。
手だけが彼を導く。道具としての手の能力ではない。手の欲望が導くのである。目は理性であり、証明であり、経験主義であり、真実らしさであり、制御、調整、模倣に役立つすべてのものである。我々の過去の絵画はもっぱら視覚の絵画として、抑圧的な合理性に屈服してしまっていた。TWはある意味では、絵画を視覚から開放したのである。「不器用」は手と目の絆を断ち切ったからである。かれは光なしで描く。
その視覚の優位、理性をもっとも体現している目を手から切り離した絵画を描いていた画家が、光というものに条件付けられた写真を使った作品に興味があった。
展示されていた作品はポラロイドで撮影されたものをドライプリントにしているせいか先鋭度は低く、色彩も退色したような落ち着いた色合いになっている。SX-70の独特の超音波AFでピントの合焦があまり正確ではないのか、ピントも曖昧で形態もよくわからないものもある。sx-70は使ったことのある人ならわかると思うのだけども、意図してそのようにしたという要素よりも構図や色などそうなってしまったという感じのざっくりしたカメラで精度を出して綿密に構成して使うカメラではない。sx-70のフィルムは光源によって極端に色が転び、現像するときの温度でも色が安定しない。このカメラとしての不確定性や偶然性が暗闇のドローイングに通じるところがあったように感じる。暗闇でのドローイングを暗闇の箱としてカメラに置き換えたのかもしれない。写真家ではないのでポラロイドの利便性は、とても気軽につかえてドローイング描くような感覚で使っていたのではないかと思う。暗闇でのドローイングを行っていた初期の頃よりも撮影年代のほとんどがサイ・トゥオンブリーの後期の物語性を帯びた色彩が豊かになり、船や花のモチーフが出てきたころものだったのでやはりドローイングの代わりとしてカメラを使っていたと考えるのが自然なように思える。80年代にはサイ・トゥオンブリーはすでに作品も評価されていたはずで、製作方法もかなり確立して制作自体も慣習化してしまっていて、そこで制作の過程に昔使っていたポラロイドカメラを持ち込んで新しい制作方法を模索していったのかもしれない。写真の撮影年代と同じ時期の絵画の作品もあるともう少し楽しめたように思う。
それにしても作品の制作が慣習化して、ないか自分自身にも問うきっかけにもなった。
川村記念美術館のヘンリー・ムーアは少し離れたところにぽつんとあってとても素晴らしい彫刻とすばらしい設置場所だと思うので、美術館の帰りに散歩がてら行くのがおすすめです。このために行っても後悔しないはず。
8月27日 訂正。sx-70にはパララックスはありませんでした。ファインダーは一眼レフです。勘違いしてました。
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